旅を愛する大人のWebマガジン

Asian Journey

【Asian Journey4-6】2泊目、3泊目にめぐりたい 歴史を紡ぐ世界遺産、マラッカ

駆け抜ける世代はもう過ぎ去りました。休むこと、時に立ち止まること、なにより旅をすることは今だからこそ必要なのです。目指すは近くて実は未知なる土地、アジア。Asian Journey、特別だけど手に入りやすい旅、なにより「楽しかった」「行ってよかった」と思える土地、ホテル、時に人をご紹介します。第4弾は大人が旅する初めてのマレーシア 5泊6日のマラッカ&クアラルンプールをお送りします。

ミックスカルチャーの足跡 ”マラッカ海峡の歴史都市”

<マラッカ観光のハイライト>
世界遺産の街、マラッカを歩く
※2泊目、3泊目の日中におススメ

2008年に認定されたマラッカ海峡の歴史都市(マラッカ、ジョージタウン、キナバル公園、グヌン・ムル国立公園)です。マラッカの街そのものが世界遺産であり散策はいわばハイライト。その「散策(散歩)」といえばマレー語、インドネシア語で「ジャラン ジャラン (Jalan Jalan)」といい、旅行雑誌『じゃらん』のネーミングの由来にもなりました。

かつては貿易の要であったマラッカ川だが現在は整備され遊歩道も作られ、観光用のボートも走る

して名所はマラッカ川を挟んだ街の中心部に点在するので、徒歩での「ジャラン ジャラン」が可能なのが嬉しいところ。世界遺産散策に役立つ地図はマレーシア政府観光局からダウンロードすることができます。

マラッカの地図をダウンロード

表的な見所をご紹介する前に「Melaka=マラッカ」という地名の読み方について触れておきたいと思います。日本のガイドブックやWebメディアで目にする読み方は「マラッカ」「ムラカ」「メラカ」など様々で統一されていません。は「アマラカ」と聞こえたことからローマ字で「Malaka」と書いていました。さらにマレー人やポルトガル人、オランダ人の綴りや発音の違いで混在が起こりました。かし現在は「Melaka」=「マラッカ」で統一されています。

(左)青雲亭などアジアの仏教や道教などの宗教文化も親交されている (右)マザーズハウスと呼ばれるマレー人の家。伝統的な高床式で家にはイスラム教の教えが反映されている

て、そのマラッカで出逢えるのは数奇で深い歴史の片鱗。その縦糸はマレー半島を舞台にポルトガル、オランダ、イギリスといった統治したヨーロッパの面影、わずか4年ながらも日本に統治されたのちに独立への道を辿った時代がミックス・カルチュアーの妙を生み出しました。して横糸となるのは政治と共に栄えた貿易により行き交いした人や料理、宗教……。さらに華人と呼ばれる福建省や広東省から一攫千金を夢見てやってきた人々の残した文化や宗教が様々交叉し、まるで美しい錦絵のように紡がれました。代表するのが「その土地の人」という意味を持つ「プラナカン」による文化と人(ババ=男性、ニョニャ=女性)で、知れば知るほど趣きと面白さがあります。

鰻の寝床と呼ばれる長屋で建物本体はオランダ式、レンガ造りが特徴。1800年以降、防犯のために破風板の上に割れたガラスの破片を敷き詰めている

たマレーシアらしさ、そしてマラッカらしさといえば長屋造りの建物です。1824年、スマトラを領していたイギリスと、マラッカを領していたオランダがその領土であるアチェ王国とマラッカを交換するという英蘭協約が成立しました。1826年、これによりイギリスは億万長者通りにある建物の保全を決め、以後3階以上の建物は造られず大きな改築も出来ないまま現在まで残されることになりました。根の破風板(はふいた)のみ、のちに建物を買った中国人が変えていますが、その頂上部が曲線を描いているのが特徴的で手を入れた主の系統を知ることができます。保全は2008年の世界遺産登録以降、ますます強化されています。

億万長者通り

億万長者通り。細い二車線の道路に古い建物が立ち並ぶ。現在は空き家もあれば国が買い取った家屋などもある

称、ヒーレン・ストリート。別名億万長者通り』と大層なネーミングですが、正式名称は『ジャラン・トゥン・タン・チェンロック(Jalan Tun Tan Cheng Lock)』。ン・チェンロック氏(陳禎祿 1883年~1960年)という、この地を代表する英雄であり大富豪の名前に由来します。彼の祖先も華人で、マレーで生まれた”プラナカン”です。マレーシアで最初の大統領でありMCA(中国マレーシア協会)を設立。彼は国王から贈られる最高の称号「Tun(タン)」を授かるほどの功績を残しました。して「ジャラン」と繰り返さずに使うと「通り」という意味や「行く」という動詞になります。

タン・チェンロック氏の子孫がオーナーを務める『ホテル・プリ』

ランダ領時代はオランダ人が住んだ通りでしたがタン・チェンロック氏の住まいをはじめ、裕福な華人実業家たちがこの通り沿いに住み『億万長者通り』の異名を得ました。そして今でも、かつて栄華を極めた人たちが住んでいたという中国、ポルトガル、オランダ、イギリス様式の入り混じったユニークな建築物が並ぶのを見ることができます。

華僑銀行(OCBC)創業者である徐垂清の屋敷。現在は8、9世代目が継承している

億万長者通りにはプラナカンの歴史と文化を知ることのできるババ・ニョニャ博物館もあります。

マラッカ・キリスト教会

称、オランダ広場またはレッド・スクエアににあるとりわけ目立つ赤いレンガ色をした建物はマラッカ・キリスト教会です。マラッカがオランダに占領されたのは1641年のことでしたが、1741年にオランダ統治100年を記念して建設が始まり、1753年に完成を迎えました。して1924年のイギリスによる統治が始まると「英国国教会」、旧日本軍による占領時代は日本名で「聖公会」と呼ばれ、その名だけでもマレーシアの激動を感じることができます。

(左)オランダ統治時代に基づくプロテスタントの教会。釘を一本も使わずに建てられたことでも知られる (右)後方にはポルトガルの貴婦人の墓石を見ることができる

壇には『最後の晩餐』の模様が掲げられ、ポルトガル風のクリームイエローの配色がやさしい設え。建設資材はスマトラとオランダから運ばれ、聖堂の長椅子はスマトラ産のチーク材で造られ1753年から使用されています。た床石や壁石にポルトガル時代の墓石を利用しているのも特徴のひとつ、アルメニア人商人や英国人の墓石なども配されています。中でも最も古いのは1562年に死去したポルトガル人女性の墓石。2羽の鷲が刻まれており、主が高貴な身分にあったことがわかります。会にはお土産売り場も併設されていて教会関連グッズやマラッカ土産を求めることができます。ドネーションも兼ねて購入してはいかがでしょうか。

マラッカ キリスト教会
【Chirst Church Melaka】
住所:Gereja Christ, Jalan Gereja, Bandar Hilir,  Melaka
電話番号:+60 6-284 8804
時間:09:00~17:00 ミサの時間以外は見学、拝礼することができます
URL:https://www.christchurchmelaka.com

会を囲む広場にはビクトリア女王即位60周年記念に造られた噴水や時計台がそびえます。この時計台はタン・チェンロック氏の子孫であるタン・ベン・スィ氏が亡くなった父であり、5年間マレーシアの財務大臣を務めた経歴も持つ豪商タン・キム・セン氏のために1886年に建立したものです。当時はイギリス製の時計が使われていましたが1982年にSEIKOから寄贈された時計に交換され、今も時を刻んでいます。

(左)広場中央に位置する時計台 (右)同じく広場にある「I LOVE MELAKA」のモニュメントは人気の撮影スポット

会と隣接するオランダ人総督公邸跡『スタダイス』という建物はそもそもオランダ語の「Stadthuys(議事堂・市役所)」という意味です。現在はマラッカ歴史博物館に使用されいてマラッカ王朝の歴史や各統治時代の歴史を知ることができます。

マラッカ歴史博物館

(左)教会装用、赤レンガ色の歴史博物館の外装(右)入り口を入ってすぐの床下には1650年にオランダが作った当時の排水溝が残されている

史博物館では1650年頃のオフィスが可能な限り残されています。設備、資材も当時のままで展示しているのも特徴。ドアなどに使用した木材はセキュリティーを兼ねもっとも固いといわれるスマトラ産のダイアモンド・ウッドを用いられています。14世紀に使用された本物の武器、歴代の通貨、マラッカ王国の創立と歴史などをしたためた絵画なども展示されています。

マラッカ歴史博物館
【Perbadanan Muzium Melaka】
住所:Jalan Kota Stadhuys, Melaka, Malaysia
電話番号:+606 333 3333

セント・フランシスコ・ザビエル教会

ジャン・バーブによるデザインで近代ゴシック建築様式で南フランスのモンペリア地方にある聖ペテロ・カテドラル教会をモチーフにしている

ルトガル統治時代に深く浸透したキリスト教。その立役者といえば宣教師、フランシスコ・ザビエルです。ポルトガル王・ジョアン3世の命を受け、目指したインド・ゴアを経て、1545年9月にマラッカにやってきました。彼の死後、フランス人のペテロ・ステファン・L・ファーブルがザビエルの宣教活動を称え、1849年に聖母マリア・ロザリオ修道院跡にドミニコ会のギャスパー・デ・クルーズ神父が、このセント・フランシスコ・ザビエル教会の建造を開始しました。

鹿児島出身のヤジロウは商売のもめごとから殺人を犯し、ポルトガル船に密航しマラッカへとやってきてザビエルと出逢った。己の罪をザビエルに懺悔したヤジロウはこれをきっかけに日本人初のカトリック信者となった

地内にはザビエル像と共に、彼の通訳者であり布教を助ける翻訳者としても活躍した日本人、ヤジロウの像が佇んでいてザビエルとこのマラッカとの繋がりを強く感じることができます。

セント・フランシスコ・ザビエル教会
【Church of St.Francis Xavier】
住所:

ちに日本を発ち、一旦ゴアに帰ることを決意し中国を目指したザビエルは1552年、46歳で上川島で病により死去。岐路、遺体はマラッカに移送され、貿易風の影響もありセントポール教会(現在のセントポール教会礼拝堂史跡)周辺に9カ月安置されたと伝えられ、こちらも合わせて名所となっています。

丘の上にあるセントポール教会礼拝堂史跡。ザビエル像は今日もマラッカの街を見渡している

サンチャゴ砦

現在は石造りの門の一部と大砲のみが残されている

1511年、ここがマラッカ海峡の海岸線であったことからポルトガル軍がオランダの攻撃を防ぐために建てられたのがサンチャゴ砦(またはファモサ要塞跡)。ここに大砲を構え、周囲を高い塀で囲み攻撃を防御したといいます。

サンチャゴ砦
【Porta De Santiago】
住所:Jalan Parameswara, Bandar Hilir,Alor Gajah, Melaka

ヘリテージ・ウォークでわかりやすく、まわりやすく

ラッカの見どころはまだまだ尽きません。他にマラッカ・スルタン・パレス、青雲亭、独立宣言記念館、マラッカ最古の井戸があるブキッ・チナ、カンポン・クリン・モスク、鄭和文化館、ヴィラ・セントサ、スリ・ポヤタ・ヴィナヤガール・ムーティなど1日ではまわりきれません。また億万長者通り他、昔ながらの風情を残す各通りも見飽きることのない風景です。1日程度では足りないくらいに感じるでしょう。

れらの名所をマラッカの名ガイド、エディーさんの案内でめぐることができるホテル『カサ・デル・リオ・マラッカ』のヘリテージ・ウォークをおススメします。

ヘリテージ・ウォーク
【Heritage walk】
詳細:1名 88リンギット 4名から催行

回は週末のお楽しみ、ジョンカー・ストリートのナイトマーケットやおススメのお店をご紹介します。

レート:2019年5月現在 1リンギット=26.14 円

カサ・デル・リオ・マラッカ
【Casa del Rio, Melaka】
88, Jalan Kota Laksamana ,Melaka,Malaysia

問い合わせ・予約電話番号(英語対応): +60 6 289 6888
問い合わせメールアドレス(英語対応) : reservation@casadelrio-melaka.com
公式URL:https://casadelrio-melaka.com
問い合わせ・予約電話番号(日本):サンヨーインターナショナル 03-3461-8585

協力:カサ・デル・リオ・マラッカ
協賛(順不同・敬称略):マレーシア政府観光局セランゴール州政府観光局エアアジアX
写真・文:泉美咲月(Satsuki Izumi)

【スポンサーリンク】
■情報はアイコンをクリックして各政府観光局とエアアジアXで

<バックナンバー>






Voyager は旅を愛し、旅で生かされる” 大人” のためのWeb マガジンです。旅に欠かせないもの、それは感動とストーリー、かけがえのない想い出。そのために実際に取材を経て、生の声を伺い記事を制作しております。だからこそ、このサイト全般において文章・画像等の無断転載、無断転記は固くお断りしております。文章、写真の著作権はすべてVoyager編集部に帰属します。



コメント

この記事へのトラックバックはありません。

関連記事一覧

PAGE TOP

Copyrighted Image