「Voyager」編集長の泉美 咲月です。
「旅するジャーナリスト」では、取材とはまた違った視点で私自身の旅物語を綴らせていただきます。
まずは、バンコクの定宿となった『ザ・ムスタングブルー』前編です。
「それでも私は、旅をやめない。」
それは、自分自身に繰り返し言い聞かせた言葉。
コロナ禍でも目指したのは、未来の扉でした。
そして、有難いことに2022年10月、扉は「1番に帰りたい」と願い続けたタイに向けて開かれたのです。
「新しい章を刻もう」。
すでに動き始めていたタイは、変わらずやさしく出迎えてくれました。何度も何度も思い出した肌にあたる熱と湿気、街の匂い。スワンナプーム国際空港に降り立った途端に思わず涙が込み上げてきたほど帰りたかった土地です。
こうして2022年10月、3年ぶりに訪れたタイで、もっとも新鮮だったのはヤオラートが放つ息吹でした。
美しい痛みが生み出した空間 ザ・ムスタングブルー
2015年頃からチャイナタウン(ヤオラート)のソイ・ナナ周辺から巻き起こったムーブメントをご存じでしょうか。
ことの起こりは『Tep Bar』。海外留学を経験した若者が他国の文化や感覚を磨き帰国。空き店舗をリノベーションしタイの伝統楽器の演奏と薬草酒・ヤードンなどで作ったカクテルを出す店を開店。瞬く間に地元っ子に人気となり外国人観光客にも知れ渡るように。それに感化された者たちがチャイナタウンの古い店やチャオプラヤー川沿いの倉庫などに店舗を構えるようになっていきました。
かつてのタイらしさや未来に繋いでいくべきタイの伝統にコンテンポラリーな雰囲気が融合。古き良きものをベースにし命を吹き込むコンバージョンが進んでいるのです。
また、以前のバンコクの夜は「遊ぶ人を選ぶ」傾向にありましたが、映える古い街並み、空間、カクテル・モクテルが人気を集め、昼はカフェホッピング、夜はバーホッピングが楽しく新しい時代となりました。
なかでも異彩を放っているのが2020年開業の『ザ・ムスタングブルー(The Mustang Blu)』。その美学を、とことん見せたい一方で、本当は誰にも教えたくないのが本音のホテル&カフェレストランです。
場所は、MRTフアランポーン駅から徒歩で約5分。黄金仏寺院と呼ばれるワット・トライミットにもほど近い、中華街らしい町並みのなかで、ひと際目立つ存在です。
コロニアル様式の洋館は1905年に病院として建てられたものの、次に銀行に、転落して風俗店に、そして近代ではナイトクラブとして使われ、やがて廃屋に。そんな数奇な運命を辿った遺物を蘇らせたのは、女性オーナーのジョイ・アナンダチャチャロエンさんでした。彼女は、ファッションブランドのスタイリスト兼ショーディレクターであり、同じバンコクにある築60年を越える建物を使った『ザ ・ムスタング ネロ ホテル(The Mustang Nero Hotel)』を手掛けた人物です。
2軒目のホテルを作るだけではありません。古い建物を解体から守るという決意の元、建物の外観、天井や壁の経年劣化をあえて見せることで腐敗の染みの下にある、美を際立たせることに重視した「美しい痛み」と名付けたプロジェクトを立ち上げます。少ない予算と、たった5ヶ月のリノベーション期間で見事に蘇生。過去の店では不要の産物と敢えて隠されていた柱が露わになると、そこにスコッタ模様で頭部に美しい装飾が。さらに吹き抜けの天井にはあかり取りの空間を見つけるなど、嬉しい奇跡がいくつも起こったのです。
「ムスタング」とは、スペイン語の放浪者 「mestengo」に由来する言葉。アメリカでは、小型の再野生馬を指しますし、「あばれ馬」「じゃじゃ馬」という意味も持ちます。小さいながら激しさのあるサウンドとチューニングが狂いやすい扱いにくいギターもこれが語源で、ムスタング(マスタング)と名付けられています。
当初、ホテル名は、『ザ ・ムスタング ネロ ホテル』同様、美しい黒人の悲しみと苦しみを描いたブルースにあやかって「ムスタングブルース」と名付けられるはずでした。しかし、古きを訪ね、新たな空間を生み出すことは、時に難しく落胆することを身をもって感じたことから、思い直し悲しみを意味する「ブルース」ではなく、イタリア語で「青」を意味する「ムスタングブルー」という言葉に変えて命名しました。
「映え」を越える 行列ができるカフェレストランの気配とは
さて、パンデミックの最中のオープンとなりましたが、この独自の世界観とカフェレストランの「映える」メニューは、地元っ子の心をしっかり掴み、たちまち行列のできる人気店へと駆け上がります。通りがかりの人まで、つい立ち止まり写真を撮ってしまうほど特徴的なドア。店の中央を飾る螺旋階段と積み上げられた古書。新旧のモチーフが互いを引き立て合い、タイにいることも忘れてしまう瞬間が、そこにあります。
最初、なにも知らずに案内された私は、このドアの向こうに広がった風景に息を呑みました。午後だというのに、ぼんやりと灯るオレンジ色のあかり、窓の外を行き交う車の音を押し返すように低く流れるクラッシックやミュージカルのナンバー。
最初は壁紙かと思った壁面や天井は、湿気や経年劣化が生み出した傷痕を活かしています。その壁から首を覗かせているのは、やさしい目をしたキリンの首の剥製。旗艦ホテルとなる『ザ ・ムスタング ネロ ホテル』にちなんだ「ネロ」という名です。
ホテルのフロントスペースに進むと馬、鳥の剥製やダチョウの骨格標本が置かれています。元はアナンダチャチャロエンさんのコレクション。しかし剥製にするために殺されたのではなく自然死や病、事故などで命を落とした動物を展示し、購入した金額の一部は保護団体に送られているといいます。過去と現在、生と死が共存する異空間には、様々なこだわりと哲学が詰まっているのが見て取れます。
飲食の提案にも主張が強く表れています。1フード、1ドリンクが、ここでのルール。ですが、どれも皆、美しくことから、あれこれと頼んでみたくなる誘惑の方が勝るかもしれません。パンやスイーツは『ザ ・ムスタング ネロ ホテル』の厨房で作られ、ここへと運ばれています。
おススメはモクテルとスイーツ。メニューには写真と英語の解説がついているので選びやすいのもポイント。木製のショーケースにも。この日のケーキが並べられています。
これらのメニューは、読書家のアナンダチャチャロエンさんが本を読み、イメージを重ねて試作したのちに作られているといいます。さらにこの館をモチーフにした食器、ロゴを配したプレート、添えられたカトラリー。なにより飲食のすべてに、こだわりとセンスが感じられます。
例えばコーヒーを使ったメニューも豊富。「Gunn’ Rose」は、ローズレモネードにエスプレッソを注ぐ、爽やかでほろ苦いドリンク。
ガラスの欠片のような飴細工、コーヒーにラベンダー風味のミルクを注ぐラテ「Space Oddity Latte」は、未知なる組み合わせでしたが、ラベンダーの香りと苦みのあるコーヒーは意外と相性が良いのを知りました。
「映える」スイーツは、一番人気。
ひとことで表すならば「花園」。
花やフルーツが散りばめられたお菓子は、この佇まいとけあい、食するだけで映画の主人公のような気分にさせてくれます。
コロナで隔てられ、夢に見続けたタイ・バンコクで出逢えたのは、過去をまるごと包容し進化した、初めてみる世界でした。
昨年、そして本年2023年は「タイ観光年」。New Chapter(新しい章を刻もう)というスローガンを掲げ、旅人を迎え入れています。久しぶりの方も、初めての方も、逆境を経て立ち上がったタイへとでかけてみませんか。
さて、次回は『ザ・ムスタングブルー』の真髄であって、心臓といえるホテルをご紹介させていただきます。
ザ・ムスタングブルー(The Mustang Blu)
住所:721 Maitri Chit Rd, Khwaeng Pom Prap, Khet Pom Prap Sattru Phai, Bangkok
電話番号:+66 64-708-0761
営業時間:11:00~22:00
定休日:無休
Facebook:https://www.facebook.com/themustangblu/
Instagram:https://www.instagram.com/themustangblubangkok/
協力:タイ国政府観光庁
写真・文:泉美 咲月(Satsuki Izumi)
Voyagerは旅を愛し、旅で生かされる” 大人” のためのWeb マガジンです。旅に欠かせないもの、それは感動とストーリー、かけがえのない想い出。そのために実際に取材を経て、生の声を伺い記事を制作しております。だからこそ、このサイト全般において文章・画像等の無断転載、無断転記は固くお断りしております。文章、写真の著作権はすべてVoyager編集部に帰属します。
コメント